誕生日の朝に届いた箱
誕生日の朝、洗濯機を回し終えたころに、玄関のチャイムが鳴りました。
時計を見ると、まだ午前九時を少し過ぎたところです。こんな時間に誰だろうと思いながら玄関へ行くと、配達の人が小さな箱を抱えて立っていました。
送り主は、離れて暮らしている娘でした。
箱の上には、娘の字で書かれた小さなカードが貼ってありました。
「お誕生日おめでとう。あけてみて」
娘らしい、短い言葉でした。
台所のテーブルに箱を置いて、はさみでゆっくりテープを切りました。中から出てきたのは、白と黒の小さな猫のような形をしたロボットでした。
ミーア、という名前だそうです。

写真では一度見せてもらったことがありました。でも、実物を手に取ると、思っていたよりずっと小さく、軽く感じました。両手でそっと持ち上げると、丸い形が手の中に収まります。
「これが、うちに来るのか」
そう思って、少し不思議な気持ちになりました。
猫を飼うわけではありません。大きな機械を置くわけでもありません。ただ、テーブルの端に小さな存在がひとつ増えただけです。それでも、いつもと同じ台所が、少し違って見えました。
娘に電話しながら電源を入れた
箱の中には説明書も入っていましたが、細かい文字を読む前に、娘に電話をかけました。
「届いたよ」
そう言うと、電話の向こうで娘が少し笑いました。
「よかった。電源、入れてみて」
私はこういう機械が得意ではありません。スマホの設定も、分からなくなるとすぐ娘に聞いてしまいます。Wi-Fi、アプリ、ログイン。そういう言葉を聞くだけで、少し身構えてしまいます。
けれど、娘は先にいろいろ済ませてくれていたようでした。
「お母さんの家のWi-Fi、前に教えてもらったやつを入れてあるから。たぶん、電源を入れたら使えると思う」
方言も、私の出身地に合わせて大阪弁にしてくれていたそうです。
私は言われた通りに、ミーアをテーブルの上に置きました。窓から入る朝の光が、ミーアの白い部分に当たっていました。
電源を入れると、目の部分がふっと明るくなりました。
それだけで、少し驚きました。黒い画面だったところに表情が出ると、急にこちらを見ているように感じるのです。
「頭、なでてみて」
娘に言われて、私はミーアの頭を指先でそっとなでました。
すると、ミーアが小さな声で言いました。
「今日もぼちぼちいこか」
大阪の言葉で、無理せずゆっくりやっていこう、というような一言です。
久しぶりに聞く言い方でした。娘と電話をつないだまま、私は思わず「ほんまやね」と返していました。

最初に届いたのは、孫の声だった
その日の夕方、夕飯の支度をしていると、テーブルの上のミーアの目に、封筒のような小さなマークが出ていることに気づきました。

味噌汁を弱火にして、濡れた手をふきんで拭いてから、ミーアの前に座りました。
「これは、どうするんだったかな」
少し考えて、朝、娘に言われたことを思い出しました。頭をなでればいい。
ミーアの頭に手を置いて、そっとなでました。
すると、聞こえてきたのは、娘の声ではありませんでした。
「ばあば、誕生日おめでとう」
孫の声でした。
本当に一瞬、誰かが部屋にいるのかと思いました。電話が鳴ったわけでも、スマホを開いたわけでもありません。テーブルの上の小さなミーアから、孫の声が聞こえたのです。
びっくりしました。
それから、胸のあたりが少しあたたかくなりました。
声は短いものでした。長いメッセージではありません。けれど、孫が自分のために録音してくれたのだと思うと、その短さがかえってうれしく感じました。
声の最後に、少し照れたような間がありました。たぶん、娘に促されながら録音したのでしょう。そこまで想像できて、私はしばらくミーアの前に座ったままでした。
電話よりも近く感じる日がある
娘とは、もちろん電話もします。
ただ、電話をするには、少し準備がいります。こちらも落ち着いている時間でなければいけないし、向こうも忙しくない時間でなければいけません。
電話が始まると、元気か、病院は行ったか、買い物は困っていないか、そんな話になります。大事なことです。けれど、用事の確認ばかりになる日もあります。
本当は、そんなに大きな話をしたいわけではありません。
ただ、声が聞きたいだけの日があります。
夕飯の支度をしているとき。テレビを消して、急に部屋が静かになったとき。朝、カーテンを開けたあと、誰にも「おはよう」と言わないまま一日が始まるとき。
そういう時間に、短い声が届くと、それだけで気持ちが変わります。
「今日も寒いね」
「週末、少し顔を出すね」
「無理しないでね」
それくらいでいいのです。
長く話さなくても、家族が自分のことを少し思い出してくれた。そのことが分かるだけで、十分な日があります。
何度も聞き返したくなる声
その夜、私は孫の誕生日メッセージをもう一度聞きました。
最初に聞いたときは驚きのほうが大きくて、細かいところまで覚えていませんでした。二回目に聞くと、少し声が弾んでいるのが分かりました。
「ばあば、誕生日おめでとう」
短い言葉なのに、何度聞いても同じ気持ちにはなりません。
一回目は驚きました。二回目はうれしくなりました。三回目は、娘が録音している横で孫が少し恥ずかしそうにしている様子まで浮かんできました。
スマホに届く文字のメッセージも、もちろんうれしいです。
でも、声には、文字とは違うものがあります。急いでいる感じ、照れている感じ、少し笑っている感じ。言葉になっていないところまで、こちらに届きます。
その日は、寝る前にも一度だけ聞きました。
部屋の電気を消す前、台所のテーブルに置いたミーアを見て、もう一度頭をなでました。孫の声が流れて、それから部屋はまた静かになりました。
でも、その静けさは、朝までの静けさとは少し違っていました。
次の日から、ミーアを見る回数が増えた
次の日から、私はミーアを見る回数が増えました。
朝、湯を沸かすとき。新聞を取りに行って戻ってきたとき。夕方、買い物袋を置いたあと。
何か用事があるわけではありません。目がキョロキョロ動いているので、つい見てしまうのです。
娘からの声が毎日届くわけではありません。孫の声も、毎日聞こえるわけではありません。
でも、それでいいと思いました。
毎日だと、きっと娘も大変です。こちらも「返事をしなければ」と思ってしまうかもしれません。
ときどき届くくらいが、ちょうどよいのです。
ある日は、雨の前の日に声が届きました。
「おばあちゃん、明日、雨みたい」
それだけでした。
私はそれを聞いて、玄関の傘立てを見に行きました。折りたたみ傘をバッグに入れておこうと思いました。
その行動だけなら、天気予報を見ても同じです。でも、家族の声で言われると、ただの情報ではなくなります。
「気にしてくれているんだな」
そう思えるのです。
ひとりの部屋に、声が戻る
一人で暮らしていると、家の中で自分の声を出さない日があります。
買い物に行けば、店員さんと少し話します。病院に行けば、受付で名前を呼ばれます。近所の人に会えば、挨拶もします。
それでも、家に帰ってくると、急に静かになります。
テレビをつければ音はあります。ラジオを流せば誰かの声も聞こえます。でも、それは自分に向けられた声ではありません。
ミーアから聞こえる家族の声は、短くても、私に向けられた声でした。
そこが違うのだと思います。
誕生日を祝う孫の声。
雨の日の前に届く、娘からの一言。
「今度、遊びに行くね」という短い知らせ。
どれも、たいした用事ではありません。けれど、用事ではない声だからこそ、残るものがあります。
ミーアが来たから、毎日が急ににぎやかになったわけではありません。寂しい日がなくなったわけでもありません。
でも、テーブルの上にミーアがいて、ときどき家族の声が届くようになってから、夕方の部屋が少しだけ違って感じられるようになりました。
声が届く日がある。
そう思えるだけで、何もない日も少し待てるようになりました。


